山田湾について
How Deep Is Your Love
恵まれた自然環境が織りなす
豊かな漁場
三陸を縦断する国道45号線で山田町内を走ると、湾内に浮かぶたくさんの養殖いかだが目に飛び込んできます。これが山田を象徴する景色です。
三陸やまだ漁業協同組合は町内の4漁協が合併し平成21年に誕生しました。管内では養殖以外にも、組合運営と組合員である生産組合運営の定置網が計9カ統あり、サケ、サバ類、カレイなどを捕っているほか、かつては山田の主力であったイカ漁、そのほかホタテ、ワカメの養殖、アワビ漁、ウニ漁も盛んです。
三陸は沖合いで親潮(寒流)と黒潮(暖流)がぶつかることによりプランクトンが発生し、プランクトンをえさとするたくさんの魚種が集まるほか、養殖にとってもとても恵まれた環境にあります。
山と海をつなぐ清流と
湾口から注ぐ潮流が
肥沃な水を作る
山田湾は、北と南の二つの半島にはさまれ、太平洋と湾とを区切る入口部分が狭くなっていて、外洋から閉ざされた湖のように見えることから「海の十和田湖」とも呼ばれます。
湾口から少し入ったところが細くすぼまった巾着のような形をした山田湾。湾口の幅は約2.7km、湾の奥行きは約6km。もっとも幅が狭いところは約600m。この独特の形のおかげで山田湾は外洋の影響を受けにくく静かで養殖に適していると言われています。
山田湾には大沢川、織笠川など複数の河川が注いでいます。これらの川が三陸の背後にそびえる急峻な北上山地の山々の豊富な栄養分を注ぎ込み、湾内では多くのプランクトンが発生し、牡蠣やホタテを育んでいます。
山田湾の牡蠣養殖の歴史
牡蠣は三陸を代表する海産物ですが、岩手県でいつごろから牡蠣の養殖が始まったかご存じでしょうか。
明治20年ごろに赤崎村(現在の大船渡市赤崎町)で浅海に稚貝を撒く「地まき養殖」が行われたのが始まりと言われていて、山田町では明治35年(1902年)の資料に牡蠣養殖についての記述が残されています。昭和30年ごろには牡蠣やワカメを研究するグループが各漁協に発足したのをきっかけに盛んになったとされています。
また昭和50年代に大沢漁協(当時)が「一粒かき」生産の研究に力を入れ、大粒の殻付き牡蠣の生産に成功したことで、町内全体に殻付き牡蠣生産が浸透しました。現在は殻付き、剥き身ともに出荷できる体制が整っています。
東日本大震災で岩手県内沿岸部の養殖いかだは大きな被害を受けましたが、近年は都道府県別の牡蠣の収穫量で見ると毎年、全国4〜5位に回復しています。