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道又貢・諒大のおすすめ商品

道又貢・諒大

ウニ・アワビ漁、ワカメ・ホタテ養殖から加工まで。
浜で生きる親子三代

ほぼ同じ体躯の後姿がふたつ、早朝の山田町の大沢漁港の岸壁を進んでいく。
その歩き方まで瓜二つ。この道40年のベテラン漁師、道又貢さん、そして次男の諒大さんだ。
諒大さんは2019年に浜の仕事を始めた。
「孫は最高の宝物」と顔をほころばせるのは貢さんの母の憲子さん。
道又家は一家で夏場のウニ、冬のアワビ、養殖品などを出荷する「浜の総合商社」だ。

戦前からの加工業
チリ津波を経て店舗も

山田湾の北寄りに位置する大沢地区はホタテやカキの養殖がさかんだ。この地で道又家が浜の仕事を始めたのは戦前のこと。貢さんの祖母ツルヱさんが、塩ウニやふのり、アカザラ貝の佃煮などを籠に背負って、隣の宮古市の市場で売りに行ったのが始まりだった。漁師だった夫が大病を患い漁に出られなくなったのをきっかけにツルヱさんは海産物の加工販売を始め、帰路に宮古市で仕入れた野菜などを山田町で売って、家系を支えた。販売だけなく、海苔やワカメの養殖もしており、ワカメは今のような塩蔵だけでなく浜で干した乾燥ワカメも手掛けていた。

そんな道又家に憲子さんが嫁いできたのは1960(昭和35)年。三陸をチリ津波が襲った年のことだ。「嫁いで2ヶ月後に津波が来て。この前(東日本大震災津波)みたいにすごいのとは違って水がさーって床の上に入ってきた感じだった」。このチリ津波の後、宮古市での販売はやめ、大沢の自宅で加工した塩ウニなどの商品をその場で販売する店を構えた。同年に誕生したのが貢さんだ。

昭和30年代の三陸の浜は豊かだった。貢さんの父昭雄さんはイカやイワシ、コウナゴなどの追い込み漁を主とした漁師で、北海道で延縄漁のエサとして使われるイワシが高値で取引され、どこの家でも女性や子どもも含め家族総出で漁を支えた。

  • 菱栄丸
  • 道又憲子
  • 道又貢

この道40年のベテラン漁師
ワカメ養殖、アワビ・ウニ漁から
加工まで

そんな浜の好景気のなか育った貢さんは、小さいころから両親や祖父母の仕事を手伝ってきた。工業高校を卒業後は専門学校で経理を学んだが、山田に戻って父と一緒に海に出るのは自然な流れだった。「家は昔から漁もやるし加工もやる。山田に帰ってきたら自分もそういうものだと思っていました」。父は酒も飲まず寡黙な人だった。手先が器用で、漁業や加工の道具も自分で作ったり改良したりと真面目でまめな父の働く姿勢はおのずと貢さんの手本となった。

そのころになると町内には食料品全般を揃えたスーパーが出来始め店舗は閉めることになったが、三陸の主要な魚である鮭が豊富に獲れた時代。貢さんは秋冬には父とともに延縄で鮭を獲り、春が近づけばワカメを収穫し出荷する作業に追われ、その合間には「磯もの」と呼ばれるウニやアワビを獲った。

  • 道又貢
  • 道又貢・諒大さんのホタテ
  • 道又貢・諒大さんのアワビ

三陸の夏の風物詩であるウニは、山田湾漁協を中心に近隣の漁協の市場で競り落としたものを丁寧に洗い瓶に詰めたものを地元のスーパーなどに卸すほか、注文を受けて全国の消費者にむけても出荷している。 「うちの商品を食べてくれた全国の方が瓶のシールをみて電話で注文してくれるんです。『おたくの瓶ウニは水(塩水)がほとんど入っていなくてウニだけ詰まってるから』って」。

人気の秘訣はもちろん量だけではなく質にある。盛夏になるとオスの個体の中には白く濁ったものが増えてくるが、貢さんらは塩水の中でざるを何度も振って白い液体が出なくなるまでウニを洗う。これが残っているといがらっぽい苦みが残るためだ。「10kgのウニを仕入れても洗うとすっかり量が減るんです。でも食べる人はきれいな方がいいですもんね」。憲子さんは屈託なく笑う。

道又貢・諒大さんの牛乳瓶入り生うに
  • 道又諒大
  • 道又諒大
  • 道又貢

父昭雄さんが2008年に亡くなってからは憲子さんや従業員の手助けも受けながら家業を担ってきた貢さん。東日本大震災の津波では自宅兼加工場と船を失った。当時、2人の息子は高校1年生と中学3年生。諒太さんと兄、憲子さんとともに避難所や知人宅に身を寄せた。多くを語らない貢さんだが、憲子さんは「一切合財流されて孫2人を抱えて食べていけるのかと本当に不安だった」と振り返る。しばらくすると、新造船や加工場の復旧についての支援策などの情報も入ってくるようになり、貢さんはもう一度、大沢の浜で生きていくことを決めた。

それから8年後、高校を卒業し成人した2人の息子は関東で働いていたが、次男の諒大さんが町出身の妻とともに帰郷。貢さんらとともに浜の仕事をすることに。自身も父の作業を見て覚えたという貢さんは、諒大さんに対して逐次言葉で伝えるよりは一緒に作業をしながら身振り手振りで教えてきた。帰ってきた直後の冬は親子で1艘の船でアワビを獲りに出たが、翌年には諒大さんは「1人で漁に出たい」と申し出て、最高で50個を獲って戻ってきた。「まだまだ1人ではできないことも多いけれど、早く覚えて1人前になりたい」。柔和な諒大さんの表情が引き締り、憲子さんの表情は緩む。

「全国や外国からの支援があってここまで来られた。山田の海産物をたくさんの人に知ってもらいたい」と貢さん。幾多の苦難を乗り越えてきた三陸山田の浜。道又家の新時代は始まったばかりだ。

  • 道又貢・諒大