三陸やまだ漁協定置網
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本州「最東端」の定置網津波を乗り越え三陸の魚を届ける男たち
「魚を待つ」漁と言われる定置網は近年、「持続可能な漁法」として資源保護の観点から見直されつつある。
三陸やまだ漁協の定置網は、北は宮古市の重茂半島沖から南は山田湾内まで全部で3つ。
植物プランクトンが豊富な三陸に集まる多種多様な魚を毎朝、山田魚市場に水揚げしている。
定置網漁は全員が
ひとつになって初めてできる
午前3時半すぎ。大海原と空との境も見分けることのできない闇の中を「第二姉吉丸」は北東へ進む。山田漁港を発って30分。この定置網漁の全てを取り仕切る「大謀」の高屋敷健治さんは、操舵室の扉を開け強風の吹くデッキに降りた。時計を見るでもない。港を出てからの時間の感覚は深く体に刻まれている。
間もなくして進行方向前方、真っ黒な闇の中に光の塊が上下に動くのが見えてきた。「第二姉吉丸」の先を航行していた「第一姉吉丸」だ。
定置網漁は2艘揃ってはじめて漁を行うことができる。 「定置網」の名の通り、網は海の中のあらかじめ決まった場所にしか掛けることができず、場所を変更することは困難だ。その場所に巨大な網が仕掛けられている。重りをつけ海底60m前後に沈められている網の形は、真上から見たらイカの胴体か酒瓶のような形だ。その胴から真横に伸びた「垣網」に気づくと魚たちは網を避けようと沖側に向かう。そうするとおのずと胴の部分の主網に入り込み出られなくなる。
「魚が網に入るか入らないかがすべて。俺たち人間にできることはあんまりない」
高屋敷さんは言う。一本釣りや巻網といった漁法が狙いを定めて船を移動させて漁をするのに対し、定置網漁は仕掛けた網に魚の群れが来るのを待つしかない。獲物に対して受け身にならざるを得ない分、高屋敷さんが大謀として心血を注いできたのは、2艘の船に乗る漁師たちのチームワークだ。
「定置網漁はみんなの力があってできるもの。全員がひとつにならないとだめなんだ」
暗い海の上での危険と隣り合わせの作業もチームワークにより安全性が高まり効率性も上がる。18名の漁師を乗せた2艘の船は、2〜3月の休漁期間中を除きよほどの悪天候の日以外は毎朝、漁に出る。前を航行した「第一姉吉丸」は「第二姉吉丸」が着くまでの時間にある程度まで網を引き上げておくのが役目だ。どちらの船に誰を乗せるか、その配置ひとつでも、作業効率は変わるのだと高屋敷さんは言う。
大謀を乗せた「第二姉吉丸」が漁場に着くと当初2艘は縦に連なるような形で網を上げ始めた。煌々と強い光がデッキの上の漁師たちを照らす。デッキ上は意外なほど静かで、皆黙って所定の持ち場で手元の網を上げ続ける。
デッキの上を埋め尽くす
銀色の魚たち
大きく上下する船の上での終わりの見えない作業。この時間が永遠に続くかと思い始めたころ、縦に並んだ2艘が少しずつV字の形に移動し始める。そこからはあっという間。2艘が挟み込んだ定置網の底が真っ黒い海の中から姿を現す。それまでは淡々と網を上げていたデッキの上の男たちがにわかに活気づく。網やロープを引き上げる作業を続ける者、巨大な虫取り網のような漁具を準備する者、魚を入れるかごを並べる者、全員の意識が網の中に集中する。
間もなくしてサケ、サバ、ソッコ、スルメイカ……、大小さまざまな魚やイカがその姿を見せ始めると、漁師たちはひたすらに網ですくいデッキに上げる。クレーンで上下する巨大な網を開くと、銀色の魚体が一斉にデッキの上で跳ねる。デッキ前部は一面、銀色の魚で埋め尽くされる。
この姉吉の漁場は、東経142度04分21秒の「本州最東端の地」である重茂半島トドヶ崎の東にある本州最東端の定置網だ。湾内にある定置網に比べると、波は高く漁港からの航行時間も長いためハードだ。姉吉の漁場を後にした2艘は今度は山田湾内の新釜に移り、もう一度同じ作業を繰り返す。2カ統に掛けた定置網を上げ市場に向かう頃にようやく空は白くなり始める。
津波を逃れた網を見た時
「やるしかねえな」
2艘合わせて18人の男たちを束ねる高屋敷さんが定置網の船に乗り始めたのは18歳のころ。父親も祖父も船乗りで、父もやはり定置網の大謀を務めた漁師一家。子どものころから海と船のある暮らしが当たり前で、「物心ついたときから漁師になるもんだと思っていた」。高校を出たら定置網船に乗るのが自然な流れだった。最初の1年は宮城で個人経営の船に乗り、翌年に三陸やまだ漁協と重茂漁協が共同で経営する船に乗った。網を上げれば大量の鮭が入っている時代も経験し、何人もの大謀のもとで働き、3人の子どもたちを育て上げた。
30代も終わりに差し掛かったころ、漁師人生の転機となったのが2011年の東日本大震災だった。家族や自宅は無事だったが、自宅周辺はがれきで埋め尽くされ道路は寸断されていた。自宅のある集落を出て山田の漁港に初めて来られたのは津波から2週間後。漁港に係留していた定置網船3艘は山田湾内でひっくり返り船底が上を向いた状態で浮かんでいた。2〜3月は定置網漁は休みの時期で、巨大な定置網は海から引き上げ漁港に置いていた。山田町の有り様を目の当たりにし漁の再開はもう無理かと思ったが、漁港の建物や船が無残な姿をさらす中で、漁港の倉庫にあった網は大半が無事だった。「網が残ってんだもの。やるしかねえと思った」と当時を振り返る。3艘の船のうち2艘は修理は不可能で処分した。1艘は新造しもう1艘は中古の船を買うことになった。
翌月、まだ30代の若さで大謀に抜擢された。誰よりも早く番屋に出勤することを自分に課し、出勤する乗組員たちの表情や言葉の変化に気を配った。東北の造船所の多くが被災し船が手に入る目途は立たない状況で乗組員たちとともにロープやかごなどの道具を集めて歩いた。再開が不安視される中でも辞めていく者はなかった。一見、強面の高屋敷さんだが、乗組員は「この船はでえぼう(大謀)さんのひとっこ(人柄)が良いからみんな着いていくんだ」と評する。
震災後、定置網漁を再開できたのは11月。山田の町の風景は変わったが、ひとたび船に乗れば、大海原が広がっていた。「子どものころから船の上だから、船に乗らないと落ち着かない」。高屋敷さんの日常が戻ってきた。大謀になってから定置網を海に沈めるための錘を数を減らし、作業効率を上げるなどの工夫も重ねてきた。それもすべて一刻も早く市場に揚げるためだ。
船上で使い慣れた刀でヤリイカを捌いてみせた。「定置の漁師をやっていると、スーパーで買ったイカは食えない。俺たちの獲ったイカや魚を少しでも新鮮なうちに食べてみてほしい」と透明なイカを持ち上げてはにかんだような笑顔を見せた。