井筒力男
(Just Like) Starting Over
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「牡蠣は自然のことだから」
労を惜しまず自然とともに
「牡蠣しかやったことねえから。これしかできねえからさ、おらは。
どこさ行って何となんの(どこかに行って何ができるの)」。
東日本大震災後も山田で牡蠣養殖を続ける井筒力男さんは牡蠣の出荷作業の手を止めずに少し声を大きくした。
津波から残った船と家族と再起をめざし
大津波は井筒さんから多くの大切なものを奪って行った。
最大のものは、ともに牡蠣の養殖に取り組んでいた次男だ。山田町内の自宅も流され、仮設住宅での暮らしは7年以上に及んだ。
それでも山田の海から、そして牡蠣の養殖から、離れることはなかった。苦楽をともにしてきた船、萬栄丸の存在も井筒さんの背中を押した。あの日、井筒さんは漁港につないであった船のロープを長く伸ばした状態にして、自身は高台に避難した。「ロープっつーか、手綱を長くしたから助かったんじゃねえのかなと思ってんの。津波が引いた後、港にひとり(萬栄丸が)残ってた」。長くしておけばロープに遊びが生まれ、津波が来た時にかかる負荷が軽減されるのではないかというとっさの思い付きだった。手綱、という言い回しにも船への愛着がにじむ。
井筒さん夫婦と長男は、残された萬栄丸とともに再起を目指した。津波のあと数ヶ月は漁船を使って湾内の捜索活動に協力、その後は仲間の漁師たちと一緒に、津波に流さずに残った牡蠣を集めて収穫し出荷した。
経験が物言う漁師の世界
ベテランのこだわり
牡蠣を養殖するいかだは1台が12m×4mの大きさだ。三陸やまだ漁協が長さ12mのスギの丸太を近隣から調達し、震災の年の秋からいかだを組む作業を進めた。いかだは、25本の丸太を使って1台を組み立てる。1台に長さ7mのロープを150本沈めるのが、井筒さんの長年のやり方だ。
山田での牡蠣養殖は、宮城県から牡蠣の種を購入し山田で成長させるやり方が一般的だ。種はホタテ貝の両面に数十個付けられた状態で納品され、それを漁師たちが自分のロープに挟み込んで大きく成長させる。
ロープに挟んでからがいよいよ牡蠣養殖の本番。……かと思いきや、ロープに挟む前、ホタテ貝に付いた種を間引く段階から各漁師たちの勝負は始まっていると言う。いくつくらいの種を付けておけば、殻も中の身も大きく美味しい牡蠣になるのか──経験がものを言う世界。それぞれの漁師にこだわりがあり、そのこだわりによって牡蠣の出来は違ってくる。「もったいないからって欲張っていっぱい種を付けておくと細い牡蠣になってしまって身の育ちが悪い。殻のまま出荷するには良くないんだ。誰に教わったってことはないけども……」。
もうひとつ、井筒さんのこだわりは「温湯(おんとう)」と呼ばれる作業。出荷予定の前の年、船上に60℃ほどの湯を張り、牡蠣のついたロープを漬ける。この作業をすることでロープに付着した昆布などの海藻や貝類などの雑物が落ち、牡蠣に集中して栄養が行くようになるのだ。
「牡蠣は自然のこと」
手間と自然の結晶
身の入りが少しでも良くなるよう労を惜しまない井筒さん。それでも、いや、だからこそ「牡蠣は自然のことだから」という言葉が口をついて出る。どんなに手間をかけても自然の力にはかなわない。大津波はその最たるものだ。津波によって湾内のヘドロが流され牡蠣などの成長が早くなったとの声もある一方で、牡蠣の成長に欠かせない海藻アマモが流されてしまったり、養殖用のロープにヨーロッパザラボヤと呼ばれる外来種が大量につくなどの被害が出るように。「津波で海も変わったんだ」。井筒さんは言う。
しかし、震災から7年が近づく2017年冬になって、山田湾に自然の恵みが降りてきた。近年は雪が少なかった三陸沿岸に雪が降り積もったのだ。雪が積もった年は春になれば、3本の川が栄養分豊富な雪解け水を山田湾に注ぎこむ。「雪が多いと、翌年の牡蠣はよくなるんだ。春になると海の中に草がいっぱいおがって(育って)、それが腐って牡蠣の餌のプランクトンになる」。
苦難を乗り越え、自然とともに生きる井筒さんの牡蠣。
井筒さんの手間と自然のもたらす恵みの結晶だ。